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内観体験記 学校教育 教師の内観(やすら樹特集より)


小学校の教員 小学校中学校高校大学

今、教師と子供たちに 「自分をみつめ、みつけ、み直す力を」

◇ 子供たちと教師の隔たり
佐世保の事件。この事件に限らず、日々接している子供たちの様相が随分変わってきていることを多くの教師が、危惧している。 教室にはいるのが怖いと玄関で立ち往生してしまうA児。授業中興味のない学習は寝てしまうB児。喜怒哀楽がなく、無表情で淡々としているC児。

 


担任の教師は、 「以前までは、子供たちはちゃんと自分の話を聞いてくれたし、自分の掌に乗せ、学級経営するのはさほど苦ではなかったのに・・・」 とつぶやく。

 


そして理由を子供たちの家庭に求め、育ちや環境、保護者のせいにしようとしている。

 


学習指導に熱心な先生ほど、その熱意の余り、子供をきちんとさせることに躍起になったり、「がんばりなさい」「強くなりなさい」と叱咤激励のことばばかりかけたり・・・、ますます子供たちとの距離が遠くなってしまっていることに気づいていない。

 



◇ 教師の多忙感
どうしてこうなってしまうのだろう? 一つには、なかなか一人一人の子供に寄り添う時間が作れないという物理的なこと。 教師は、本来みな、一人一人の子供にじっくり寄り添いたいと願っている。でも時間がない

 

。あまりの多忙感に教師は疲れている。 時間を生み出す工夫もさることながら、「何とかこの多忙感を充実感に変えることができないか?」と考えたときに、それには一人一人の教師が自分自身を取り戻すことのできる時空が必要であるいうことに行き着いた。 自分が内面的に豊かであること。

 


(自分が自分らしくを生きていること。)自分が充実していること。 そんな教師でないと子供の前に立っても、子供は心を開いてくれず、「見える学力」の定着にあくせくと日々を過ごすことになってしまうのではないだろうか。

 


◇ 変われない教師たち
もう一つは、教師の人権感覚とでもいうもの。 忘れ物はするし、提出物は出さないD児に向かって「あんたのことは信じられないから」と座席を一番前に置く先生。

 

「かかわるなと言っているのに、E児はトラブルばかりおこしてしまう。」と愚痴る教師。

 

「私『ガラスのような神経』という言葉を聞くと腹が立つの。なぜ弱い人に気を遣っていなくてはならないの?」と言う教師。

 

 


教師の心にしっとりとした、潤いのようなものがいつのまにか消えていることに悲しくなってしまう。

 


子供の人としての尊厳を軽んじていると言われても否定できるだろうか。旧態依然と、今までのやり方を固持し、適応できない教師。 自分の価値観を押しつけている教師。目の前の子供が見えない鈍感さ。まじめで、一生懸命なのであるが・・・・。変われないのである。

 

やはり今、教師自身が自己を回復することが求められているのではないだろうか。


小学校教員内観自分を深めることは、教材を深める!!!

 

◇ 内観と私
そういう私自身、実はずっと一人で苦しんでいた。へとへとに心が疲れ切っていた。 そして現実から逃げるように北陸内観研修所へ向かった。(苦しめているのは他でもない、自分自身であることに気づいてはいなかったのだが・・・。) ともかく一人になって、自分の心をみつめ、自分のために時間を使えることのありがたさを知った。

 

七泊八日の内観の研修へ行くことを告げたとき、涙して心配してくれた母のありがたさ。当たり前だと何気なく思っていたことが実は当たり前ではなかったことに気付かされたのである。


◇ 充実し豊かなた孤独

朝、起床とともにすぐ庭に出て草むしりをした。 しんとしたすがすがしい空気の中で土に向かうと自ずと自分に向き合うことができる。

 

その後、自分だけの空間で自分の過去を思い出し、一日に十回の面談を受ける。 過去がよみがえり、自分を洗う。なんと贅沢で、豊かな孤独の時間であろうか。 私は自分自身の心の在り方の大切さと周囲への感謝の気持ちの大切さを実感した。

 

 

私の言う「孤独」とは単に物理的に一人でいる、暗く寂しいイメージではない。 自分と対話し、自分を見つめ、自分をみつけ、自分を見直していく、そんな深い沈黙であり、そんな中でこそ、深く研ぎ澄まされた内省が行えることを知ったのである。

 

孤独とは、充実した豊かな時間であり、心の安らぎを感じるときなのである。 このような時間を多くの教員がもつことができたらどんなにか心豊かになれるであろうか。 教師が心豊かであれば、そんな教師に担任された子供たちだって心豊かになれるにちがいない。


◇ 自分をみつめ、みつけ、みなおす力
「見えない学力」は「心の力」かもしれないと私は思うのであるが、(最近、何にでも力をつける風潮があり、抵抗があるが)それはとりもなおさず、「自分をみつめ、みつけ、みなおす力」であると言いたい。 そしてそれは豊かな孤独の時間の中で得られるように思う。 今までは、自分の外にある対象に埋没しきって、それを分析したり、考察したりといった外側からの学習を多くしてきたのではないだろうか。

 


そうではなくて、その対象に出会い、どう捉えている自分なのか、どうあってほしいと願う自分なのかを問う

 


「汝自身を知る」という自分に問い直す働きがいわば究極の学習になっていくのではないだろうか。 自分の内に問う学習、孤独な時間が用意されればうんと深まるであろう。

 

それがこれから求められる真の学習であるとはいえないだろうか。 それは、子供たちに求めるだけでなく、生涯にわたって、私たち自身が、自分の在り方・生き方を問い続けることに通じると確信できる。


◇ 道のうた


「・・・・苦しいことから逃げていると楽しいことからも遠ざかる。長所はうぬぼれると短所になる。短所は自覚すれば長所となる。・・・・・」 森川りうさんの作。内観研修所でいただいてきた。すごく心に響いた。

 


この詩。高学年であれば、それなりに自分と重ねて考えてみることができるかもしれない。 これを教材にして自分を見つめる学習をと考え、今「自分発見」という構想をもっている。 自分がしてもらったこと、してお返したこと、迷惑をかけたこと。 そういう問いかけを入れていく。二学期に六年生の子供たちと学習する予定を立てた。わくわくする。

 


◇ 深い子供理解
小学校の学習の中に内観に近いものを取り入れることができると私は確信している。 また、教師自身が内観研修を通して、自分を深めることができること。自分をみつめ、みつけ、み直すこと。それがひいては子供に向かう姿勢の変容に、あるいは教材研究の深さにつながると思っている。

 

そして自分の生き方の充実として、子供の前に立つ人間として、深い子供理解のできる教師になれると思う。 遠回りであるかもしれないが、間違いなく「教育」に結びつくと考えているところである。

 


中学校の教員 小学校中学校高校大学

生徒を丸ごと受け止めたくて

 

昨年十二月の末に内観へ行かせて頂きました。 内観を知ったのはかなり昔のことなのですが、実際に行けるにはずいぶん時間がかかりました。 昨年十月より富山大学教育学部に三ヶ月の内地留学に行かせて頂いた最後の週で、大学が休みになる十二月末にやっと行くことができました。

 

行かせて頂くにあたっては、あるお二方の人間的なすばらしさに触れ、お二方から何かの弾みで内観の話しが出て、やっぱり行かなきゃいけないんだなあと感じたからです。 長年思いながらもやっと行けたことが自分にとって良かったなあと思います。

 


一人の人間として、誰でもいろんな役割があり、いろんな顔を持っているのですが、私には母親としての役割、妻としての役割、中学校の教師としての役割があります。

 

生徒の気持ちが分かる教師になりたい受け止められる教師になりたいという思いがあって内観にいったのですが、教師という看板をしょっているのは自分自身でして、自分が変わらなければその看板も変わらない。そういう思いで受けさせて頂きました 。

 



学校に戻り何ヶ月か過ぎ、学校の中央階段を小走りで上がっていた時です。 ちょうど休み時間で、たくさんの生徒が移動中でした。ある生徒は理科室から自分の教室へ、ある生徒は次の教室へと移動の真っ最中でした。 その中にぽっと入ったときに、突然「なんて幸せなんだろう」と思ったのです。

 


教師をしてきて二十数年、その中であのような喜び、感動というのは始めて感じました。それは自分が教師かどうかということではなく、生徒一人一人が一滴の水の粒のように感じ、その中に自分も同じように一滴の粒として存在している。

 

 


生徒と共に、一緒にその場にいてる。そのことのへの喜びがものすごく沸いてきたのです。なんと嬉しく、なんと幸せなんだろう。感謝の気持ちがふつふつと沸いてきたのです。

 

定年まで後十年以上働かなくちゃならないのか、物憂いなあ…と思うことも多かったのですが、後十年しかない、精一杯やりたいな、精一杯ここでやらせていただきたいなと思いました。

 



また、内観後は生徒の言葉やつぶやきに耳をひっつけて(傾けて)聞くようになりました。生徒達はとりとめもないことをいっぱい話します。 でもその言葉の内容を、これは大きいこと、これは小さいこというのはこっちが勝手に決めているんですよね。生徒の心の物差しでは、それぞれが 大きいことなんです。

 

そういう生徒の思いに耳をへばりつけていくようになったと思います。 大きな声で叱ったり注意したりすることはほとんど無くなりなりました。生徒の話を聞いて、「OK。それでいいよ。前に進んでいいんだよ。」と返します。 生徒の思いや気持ちは前よりずいぶんと伝わって来るように感じました。

 



内観では、まず母に対してから始まるのですが、私は拒否しました。「できません」と。 私の中で絶えずあったのは「怒り」と「いらだち」の感情でした。どんな時も心の奥にあるのは「怒り」と「いらだち」なんです。 それがどこから来るのかがよく分からなかったんです。

 

 

たぶん親との関係だろう、これはいつか乗り越えなければならない事だろうと思いながらも四十数年乗り越えられなかったんです。 もう一つ私にとって大きかったのは、小学校時代いじめられたことによる、深い心の傷です。

 

この二つがとても大きいという思いはあったんです。とかく考え方がマイナスの方向に引っ張るんです。「どうせ私はだめなのよ…」というところについついいってしまうのです。


中学校教員内観丸ごと生徒を受け止める!!!

 

内観が始まりまして、「それでは、やりやすい方から始めなさい」と先生がおっしゃいました。順番に身近な人から内観を始めていきますと、やっぱり最後に母の所にたどり着くしかないんです。

 

たくさんしてもらったことに対して大変ひどいことしかしていないのです。もともと気付いていて、自分で見たくなかったんですね。それなのに親に対する反発だけがこの年になりながら今だにいっぱいあったんです。

 


内観を進めて行く内に、母が育った環境、母が生きた時代、どういう思いを自分に託していたのか、いろんなことが見えてきてしまう。自分の都合のいいことだけ覚えていて、都合の悪いことは全部蓋をしていたのです。

 

母が私に蹴られて破られてさんざんな目に遭いながら、そういう自分の心をなんども繕いながら私を包もうとし続けながら亡くなって行ったことが見えてしまったのです。 「どうしよう、どうしよう、もう母に会えない。もう会って話しをすることもできない。」そう思うと気が変になりそうでした。

 

 

そうして、内観が終わってからはすごくいとおしい母に変わっていきました。かわいそうだったな。申し訳なかったなという思いで一杯になりました。 精一杯生きて往かれたんだなという思いがすごくしました。私は内観によってやっと反抗期が終わったのかもしれないなと思いました。

 


それと、いじめに関してはテープを聴かせてもらう中で分かったことがあります。私は今まで、何でいじめられたのか、どのような理由でいじめられたのか、そんなことばかり考えていました。 「何で、どうして私はこんな 目にあったの?」と。内観して分かったことは、いじめられた事実は事実なんです。

 

 

「今から四十年も昔に私はけっこうひどいいじめにあった」という事実はあるのです。 しかし、そのほかに楽しいこともいっぱいあったんだということを思い出したのです。 放課後は野山を駆け回り、授業ではカエルの解剖をみんなでワイワイいいながらやったな。つらいことの他にもたくさんの楽しいことを思い出したんです。

 


「いろんな楽しい体験と同じように、いじめられたという体験もあったんだな」と、その時始めて思えたのです。それで自分はすごく楽になりました。 気持ちがマイナスの方向に戻って行かなくなったんです。そして、自分の中の怒りやいらだちというのはずいぶんと少なくなっていったように感じられました。

 


家族に対し順番に内観していくのですが、今まで見ようとしていなかったいろんなことに気付けました。

 


家に帰りまして、息子と2日間話 し続けました。それこそ息子の生まれてから今日まで、そしてこれからのことを語りあった2日間でした。 息子の夢が分かったような気がしました。このことで息子との心の距離がずいぶん近くなったように思います。自分が深く内観した人とは近くなれる、好きになれる、そういう経験をしたように思えます。

 


また、自分が人の話を聞けない元はなんだろうと思っていたのですが、それは自分のことを優先するからなんですよね。 自分のしたいことばかり頭にあって自分の用事を優先するから、人のことをぱっと切るんですよね。「あっそうなんだ」と気付きました。

 


今後どれだけ教師をやっていけるのかは分からないですが、生徒の心を精一杯くみ取っていける教師になりたいと思います。

 

それと、子供が親に対して言う言葉は非常に貴重だと思います。もう大学生になった息子が中学時代に言ってくれた言葉です。 「ガンガン飛ばしていく先生より、にっこり笑って『そうね』って言ってくれる先生の方が僕はよっぽど嬉しい。」  すごい基本だと思うのです。

 

にっこり笑って「そうだねー」と言える先生。 生徒の心に寄り添うことのできる先生。そういう教師になりたいと思います。


高校の養護教員 小学校中学校高校大学

内観との出会いが私にもたらしたもの

内観との出会い
私と内観との出会いは二〇〇四年三月。日々の執務と家族との関係で悩んでいた私は、仕事の上司から聞いた内観に興味を持つようになった。

 

保健室は生徒の心のよりどころ。毎日のように生徒がたちかわり入れかわり相談に訪れる。私は教員としてまだ若く、生徒にとっては相談しやすい存在なのだろう。生徒は心の中に溜め込んだいろんなものを吐き出していく。

 


中には「生きるって何?」「死にたい」と訴える生徒も少なくない。生徒の話を聴き励ますものの、こういった疑問に私は正直戸惑いを覚えた。 なんと励ましてよいか分からなかったからだ。ただ、そういった言葉の裏側に生徒たちが「心から愛されたい」「受け止めて欲しい」という気持ちを持っていることだけは痛感していた。

 


なぜなら、私自身もそういった気持ちをまだ拭えないでいたからだ。生徒の悩みに向き合うとき、私は自分の問題にも直面することになった。
これまでに解決してきたと思われた悩みは、ただ理屈で頭を押さえつけ納得させていただけだということに気づいた。

 


実際は心の中に糸が幾重にも絡みつきわだかまりとなっていた。「自分自身が心から解決していない問題を抱きながら生徒の相談に乗ることができるだろうか?」そんな疑問を持っていたとき内観と出会い、私のわだかまりを解くのはこれしかないと感じた。

 


縁なのだろうか?内観には導かれるように自然に道が開けていった。長島先生の本を読んでいた時期に、留学する友人を見送りに富山空港へ行った。

 


そこである人との出会いが私を内観へと導いた。以前北陸内観研修所に勤めていたJさんと知り合ったのだ。Jさんは友人の義姉で同じく見送りに来ていたのだ。

 


友人を見送った後カフェに入り話をすると、私の仕事の話から内観の話題へと移った。私は、彼女が内観研修所で働いていたということに驚きと運命を感じ、「今しかない。」と思い、すぐに予約を入れた(長島先生に講演の依頼も)。

 

養護教員高校保健室は、生徒のより所

 

私の集中内観
ゴールデンウイーク、奇跡のような体験をする。私が体験した内観を一言で言えば「わだかまりがとけ感謝があふれる。」だろうか。強く感じたのがこの気持ちだ。

 


はじめは半信半疑というか、「自分は本当に内観できるのだろうか?」という自分自身への疑問、不安がずっと頭をよぎっていた。部屋に通していただき、内観のテープを聞きだすとその不安は一層強まった。 一心に内観をしている方の話を聞くにつれ、私の内観は内観ではなく外観にしかなっていないことがありありとわかった。

 


それでも長島先生は何もおっしゃらず「がんばって内観してください。」とだけ言い残し去っていく。

 


一日目、ちゃんと座ることさえままならず落ち着きなく過ごす。

 

二日目、母について振り返るが「してもらえなかった」ことばかりが思い出される。

 

三日目、父についての内観をすると、私はまだ小学生のように父に甘えていることに気づく。女ばかりの家族の中で寂しそうな父の姿が客観的に頭の中に映し出された。祖父の内観でも同じだった。してもらったことばかりが思い出されるが、して返したことはあまりない。 自分のわがままな姿がどんどん浮き彫りになっていく。

 


四日目、二度目の母への内観。母を許せない自分が心の隅にいた。母のことは大好きだが、どこか素直に母を受け入れることができない自分がいた。小さい頃から母はいつも私のそばにいてたくさんの愛情を降り注いでくれた。自分たちが子どもに残せる財産は教養だけなのだと、たくさんの習い事をさせてくれた。小さい頃は全てが楽しかった。その記憶がわだかまりへと変わったのは、中学に上がった時だった。

 

 

 

小さいときからバレエを習わせてもらっていたおかげで、中学に入る前から新体操部の顧問に期待されて部に入った。期待されるのはとても嬉しかったし、その期待に応えようと頑張った。

 

しかし、勉強と部活の両立、先輩からの厳しい視線、友人関係での悩み等々、厳しい現実が目の前に立ちはだかりどんどん苦しくなっていった。 悩みを人に打ち明けることはなく、自分の中にしまいこんでいたため、どこに吐き出すということもなく怒りの矛先は自然と母に向くようになった。

 


思春期の悩みというものは、なかなか親に素直に打ち明けられるものではない。とにかく悲鳴をあげることで私は母に分かって欲しかったのだが、気づいて・・・・・・・もらえなかった。

 

しかし、内観をしてみて「気づいてもらえなかったのは、私が悩みを打ち明けなかったからだ。」ということに気づいた。 歯車は自分で狂わせていたのだ。 また、長島先生に「お母さんの何が許せないのですか?」と聞かれ、母のことを考えた時、私が辛いことを我慢しているのに、自分だけが大変な思いをしているということを母がよく口にしていたことに端を発していたことにも気づいた。

 


それを長島先生に話すと、「お母さんは本当にひとりだったんでしょうね。舅は鬼、小姑は鬼千匹ともいいますからね。」とおっしゃった。 それを聞いた時、思わず叔母を思い出し笑ってしまったが、それと同時に私が小さいときから大変な思いをしていた母の姿が思い出された

 

その時私は「ああ、母は本当に一人で頑張ってきたんだな。」と心から思うことができ涙がとまらなかった。私の心に絡み付いていた糸がすっと解けていったと同時に、私を取り巻く全ての人への感謝の念が溢れるように湧いて出た。

 

 

内観によって自分と出会う
中学の頃の私のバイブルは、シルヴァスタインの「僕を探しに」という絵本だった。中学の頃から今まで、私は自分というものを探し続けてきた。 三年前に始めた合気道でも「自分の道」を探したかったのだと思う。

 

しかし、内観に出会うまで私は根無し草のように自分の居場所さえ分からなかった。 それが、内観と出会い、わだかまりが解けた瞬間、目の前の靄がスーッと晴れ自分の足元がしっかりと見えた

 


私は初めて自分と出会ったような感じを覚えた。 集中内観は、本当に深く自分と向き合うことができる。たった七日間で自分の人生を振り返り問題が解決するなんてこんなにお得なことはない。

 


より多くの人が内観と出会えるといいなと思うし、自分の内観体験を活かし生徒が自分自身でいろんなことに気づいていけるように援助していくことができるようになりたいと思う。まだまだ経験も浅く、悩みは尽きないが、内観的思考を忘れずに生きていきたい。

 


こんなに早く内観に出会えて私は本当に幸運だった。特に、今年は三十という節目を迎える年でもあったため、ことさらこの節目の年に内観と出会えたことが運命のように感じられる。

 

人はいろんな人や物事に出会うべくして出会っていることを痛感する今年である。内観というものを知りつつも今まで興味を持たなかった私に気づかせ、支えてくださった方々に本当に感謝したいと思います。

 


最後に、素直に面と向かって言えないので紙面をお借りして言います。 「お父さん、お母さん、ありがとう。」


大学の教員 小学校中学校高校大学

愛による運命との和解


愛による運命との和解」、これは十九世紀ドイツの哲学者ヘーゲルの言葉です。 この言葉で表現しようとしたヘーゲルの意図は、一面的な見方のために分裂していた状態を愛によって克服し乗り越えるというものでしたが、内観経験者ならば、このヘーゲルの言葉は、まさに内観の本質を的確に表現していると考えるにちがいありません。

 


なぜならば内観を体験してみようと考える多くの人の動機は、何らかの形で行き詰まった人間関係を、自分の視座や価値観を見直すことを通じて打開したいということであり、その人間関係の中心に自分の親との関係があり、親子関係というものは運命的だと思われるからです。

 


子供からすれば、自分は親を選んで生まれてきたわけではなく、自分がまさにこの親の子供であって、あの親の子供でないというのは、まさに運命としか言えないわけです。

 


親子関係が大いにこじれうまくいかなくなると、子供は自分がなぜこの親のもとに生まれてきたのかという運命を呪い、それがひどくなると親に向かって、「子供は親を選べない」だの、「自分を生んでくれと頼んだ覚えはない」などと悪態をつくことにもなります。

 


親子関係というのは、子供からすれば逃れたくとも逃れられない必然的な人間関係であり、縁を切りたくとも切ることのできない、まさに運命なのです。

 

このような運命としての親子関係でつまづいた人間が、内観によって、それまで忘れていた親の愛を思い出し確認することを通じて、親との和解を遂げる。ヘーゲルの「愛による運命との和解」というテーマは、内観の有り様を見事に言い当てていると言えましょう。

 



私もまた行き詰まった親との関係を見つめ直したいと思い、平成十五年と十六年の正月、二回にわたって、北陸内観研修所の長島先生のもとで集中内観を体験させていただきました。 前述のように私も自分がこの親のもとで生まれたことに日々大きな不満をもち、親に対する恨みこそあれ、感謝など微塵も感じられない状況でした。


当時の自分は、両親によって不幸な境遇に陥れられたのだというように、悲劇のヒーローを気取っており、電話などで親と会話する時にも親に対して復讐するつもりで、あえてぶっきらぼうで無愛想な返答をするということを続けていました。 しかし親に対して強い恨みをもったまま、親に先立たれるということはやはり避けたいという気持ちが自分の中にあり、北陸内観研修所の門を叩いたのです。

 



一回目に体験した集中内観では、さながら破裂したポップコーン状態で、長島先生の前で臆面もはばからず号泣してしまい、親の自分に対する愛と、自分が知らぬうちに陥っていた独善的な態度に気づかされました。特に自分にとって壁であった父との関係を再認識できたことがありがたく、集中内観の終了後は、親に対する氷のような冷たい恨みの気持ちが見事に融けていることに驚き、また自然に溢れ出る感謝の気持ちで一杯でした。

 


こうして自分自身が内観を体験して、私は内観が現代の日本の教育で是非とも必要な自己洞察法であると強く思うようになりました。では内観がなぜ現代の教育で必要なのかを考えてみましょう。

 



現代の日本人、特に深刻な飢餓体験をもったことのない若者たちは、自分の置かれている現在の境遇にどこまで満足しているでしょうか。
この時代、この日本、この親のもとに生まれてきた運命を、どこまで積極的に引き受け、そこに価値を見出せているのでしょうか。自分の運命や境遇をいたずらに呪い、人間として大切な愛や感謝を忘れてはいないでしょうか。

 


大学教員 ポップコーンがはじけた!!!

 

感謝の気持ちを忘れている人間に感謝を呼び起こすには、例えばアフリカで飢餓に苦しんでいる人々の許にまで連れていって、そうした人々に比べて何と自分は恵まれた境遇にいるのかを悟らせる、という方法もあるでしょう。そこまでする渡航費用と時間と体力がなくても、それに代わる合理的で効果的な手法として内観があるのです。

 



私たちが日頃の感謝を忘れがちになるのは、実は現代の日本という社会が、素直に感謝したくなるような状況を見えにくくしている複雑化した社会であるということが背景にあります。

 

つまり高度に機械化を遂げ複雑化した社会に生きていると、人はえてして結果だけを見てしまい、途中のプロセスを忘れがちになるのではないかと思うのです。 例えば、真夜中に腹がすいたとしましょう。今の日本では、夜中の二時、三時であっても、コンビニに出かけ、おにぎりやサンドイッチを買ってくることができます。

 


しかしコンビニで手にしたおにぎりが店頭に並ぶまでに、どれほどのプロセスが介在しているかに思いを馳せる人はまずいないでしょう。

 


おにぎりの米を作った農家の苦労、中の具材を調理し味を付けるための苦労、海苔をパリパリに保ち、なおかつ簡単に取り外せるシートの開発の苦労、等々。

 

私たちはコンビニのおにぎりに関して、店頭に並んでいるおにぎりという結果の部分しか見ておらず、おにぎりが商品として並ぶまでに介在した多様な網の目を頭の中で紡ぎ出すという作業はしないのです。

 


産業がそれほど複雑化していない時代ならば、私たちにも商品製作の途中の苦労を実感できました。

 


ブリキのバケツという商品が、ブリキ職人の手によって徐々に整形されバケツに仕立て上げられていくプロセスを目にしたり容易に想像することもできたのです。
しかし機械化が進展し、製品が完成するまでのプロセスが複雑化すると、私たちはできあがった結果の商品だけに目がいくようになります。

 


こうして結果としての商品を享受することに慣れ、その享受を当たり前として疑わなくなる時、人は感謝の気持ちを忘れていくことになるのでしょう。 自分が食事できるのも、生活できるのも当たり前、数多くの商品に取り囲まれて生活しているのも当たり前、大学生が自家用車で通学するのも当たり前。

 


このように何でも当たり前と受け取り、そのことに疑いをもたない心性は怖いと言わざるをえません。

 


なぜならば享受できることを当たり前としている心性の持ち主は、享受できないことに不満を抱きやすくなり、それなしで済ますといった耐性が低下していくはずだからです。

 


結果だけを享受することに慣れ、何でも当たり前に与えられてきたことを、一度は見つめ直してみることが必要です。

 


このようにプロセスの大切さを見直すという点から考えた場合、内観はとても効果のある方法だと思うのです。内観を始めるまでは、内観者は親や周囲の者に対する感謝を忘れ、自分独りで生きてきたかのような錯覚に陥っています。

 

今生きている自分という結果しか見ておらず、現在に至るまで様々な人々の様々な支えというプロセスがあって自分が存在していることを忘れています。

 

 

ところが内観が深まっていけば、自分が今ここに生きていることを、多様な連関の網の目として位置づけることができるようになります。 同じ一つの事柄に関する内観を行う場合でも、内観が深まれば深まるほど、前後のプロセスまで含めた追想ができるのです。

 


今後日本の教育では、現にある結果だけに目を奪われることなく、プロセスを重視する視点を育てる教育を意識的に行っていく必要があるでしょう。 その際に内観は有力な方法を私たちに提供してくれるのです。

 

内観によってプロセスを見ることの大切さに気づいた人間は、この時代、この日本で、この親のもとに生まれてきた自分の運命をいたずらに嘆くようなことをせず、感謝や愛によって自分の運命と和解を遂げるでしょう。

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